SENSE OF PRESENSE – 世界は響きあうからだ –

人間と自然をつなぐ芸術–art–へ向かって。感覚・表現・交感のゆたかさを探求する旅のノート:松井雄一郎

優等生になれない場をデザインする

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優等生として振る舞いたい自分がずっといた。

今も、その自分はいなくはないけど。

だから、参加しているワークショップやクラス等で
先生を慕えば慕うほど、その好み(これは幻想)に
なっていこうとする自分がいて

そのこと自体が嫌になって
その場にいられなくなることが多々あった。

あるいは、自分の発言が
場に対してインパクトをもつのを避けたい、とか
なんか良さそうなこと言ってるふうだけれど
本当にそうか?みたいな疑いが自分に働いたり。

そういう、優等生やっちゃう自分にたいしての
嫌悪感が働いているときっていうのは
自分が感じていることに対しても疑いをもつ。
これが一番つらい。

やりたいことを、やりたいと思っていいのか?
もっとしかるべき振る舞いや成果があるのではないか?
と仮定して自分のいまを疑って
動けなくなるということがあった。

だから、自分のひらく場では
かなり明確に、相手にたいして
「私は具体的ないっさいの期待をしていない」
ということを伝えるようにしているし

具体的な期待があるならば
「これをこういうふうにやってみてほしい」
と言うようにしている。

起きることに、想定している範囲があるのであれば
結果がその範囲に収まるようなプロセスを用意する。

そして、そこで起きたことは、全面的に引き受けて
次の選択に集中する。そういうつもりでやっている。

なんでも自由にやっていいよ、と言われて、
やってみたら、「いや、そうじゃなくってさあ、」
というプロセスは、お互い、つまらないし、

「私がいい子だから、いい結果がでている」
と思ってしまうと
「自分でこれを達成した」
という感覚がもてない。

そうなってしまっては、その人の等身大の経験を
奪ってしまうことになるんじゃないかな。

とくに、描くとか、つくるとか、踊るとか
非言語のやり取りにおいては、そのリアクションって
すごく深く自分に入ってきてしまうから

感覚を扱う教育やワークショップの場では
そういうところ、すごく慎重にやっています。

ワークショップをいくつか準備しているので
またお知らせさせてくださいね。
 

(photo: Yusuke Sato)