SENSE OF PRESENSE – 世界は響きあうからだ –

人間と自然をつなぐ芸術–art–へ向かって。感覚・表現・交感のゆたかさを探求する旅のノート:松井雄一郎

色彩に、もう一度、出会う[1]

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9月の 2・3(土日)に、色彩をテーマにした
ワークショップを開きます。
場所は未定。東京都内。

「色彩に、もう一度、出会う」

みなさんはご自分の色彩感覚について
どんな思いがありますか?

こうきかれたら、
どんなことを考えるでしょうか?

絵を描く・描いた時のことかな。
洋服の色合わせのセンスかな。
お弁当の色づかいかな。

どうかな…。

多くの人が、色彩感覚って言われたら
色彩を「選ぶ・使う」シーンのことを
考えるのではないでしょうか。

このワークショップで取り組むのは
その手前と、その先のことです。

ひとつは、自分が色彩を
「どう感じているか」ということ。
体感や、感情、イメージ、空間…
色彩は、その人の世界を照らしてくれます。
私が色彩を扱う時の基本の感覚を共有したいと思います。

そしてもうひとつは、
自分がみている・感じている色を
誰かに伝える、渡す…
ということです。

誰かの視線や評価によって
その色の輝きが変わることはない
という感覚を共有したいと思います。

私がワークショップで扱う「色彩感覚」とは
「自分がこう感じている」ということへの
「色そのもの」への信頼であり、
その確かさの経験です。

色彩は、誰かから与えられた目標を
きれいに描いてみせるためのものではないと思います。

色彩はただ、いつも、そこにある。

そういう安心のなかで
色彩をあつかう喜びに、豊かさに
出会っていくような時間になると思います。
 
 
・ 
 
  
自分のつくってきたワークのなかでも
かなり初期から取り組んできたテーマです。

バージョンアップしながら
だいぶ型が見えてきました。

いままで、ほとんどの場合
大学や美術学校などの教育機関でしか
やってこなかったものです。

今回はみなさんに共有するとともに
さらにもう少し先までいってみたいと思います。

詳細、またお知らせしていきます。

 

 

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デザインは、カウンセリングではないが、かたちの話だけでもない。

先日のミーティング仕事。

日当10万円は出したいくらいだよ、
と、トップの方に言っていただけたようで
良かった。

自分でも、それくらいの働きをしよう
と思っていたので、ホッとした。



その後、担当者(親しい友人)
とのやりとりのなかで、
これまでも感じていたこと
あらためて言葉にしてみた。

どんなことかというと。

クライアントワークの場合

とくに、組織や活動のコンセプトを
表現するような仕事の場合

分かりやすいのは、
会社案内のディレクションとか
ブランドやメディアの立ち上げとか

僕の仕事には
おおきく2つのレイヤーがあるみたい。

ひとつは
プロジェクト全体の方向を見通して
共有できるイメージやビジョンがある状態を
つくること。

必要であれば
その風景を描いたり言葉にすること。
これはだいたい、デザインと呼ばれている仕事。
 
 
もうひとつは、
ひとりずつのスタッフが
プロジェクトと自分の関わりを確かめていく、

あるいは、その人の軸に近いところから
主体的に関われる回路を確かにする、
そういう、

誇張していえば、
カウンセリングに近いような仕事。
 
これは、そうしようとしている、というより
ちゃんと話を聴いて、自分の想いも確かめて
場をともにしていると、そうなるしかない
というかんじか。

 
このふたつを、
デザインのプロジェクトの話をしながら、
水面下で同時にやってる、というのが、
自分でもよく分かる機会だった。

日当10万円は出したいくらいだよ、

というコメントを、私は
このことの両立への評価だと受け取った。
よかった。ほっとした。
ちゃんと感じてくれる人がいる。

治療を目的にしていないが、
極めて治癒的である、という芸術がある。
私はそういうのを本来の芸術だと思っている。

自分の仕事が、すこしでも
そういうあり方に近づき
同時にそのことが、ちゃんと伝えられて
受け取ってもらえたらいいなとおもった。

音と時間

最近、よく聴いているのは
500年前にイギリスの作曲家が
描いたものだという。

でも、私はこうして
その調べを聴くことができる。

このまえ、聖徳太子の御衣の端切れ
というものを見た。本当かは分からないし
声は聴こえなかったが、そうして
存在の余韻を大切に誰かが保ってきた。

500年前、1500年前。

子どもの頃、それはとても遠い世界だと
思っていたけれど、いまは、
わりと近いところにあるように感じる。


時間は線的に進んでいるだけのものでは
ないなとつくづくおもう。
そう認識することもできるけれど。

何百年もの間
誰も叩いていない鍵盤があったとして
その音は過去にあるのかといえば
いま、それは目の前にある。
もし、誰かがその音を弾くのならば。

この音楽を、すこしは違ったとしても
大きくは異ならない状態で
500年前の誰かも聴いていたとしたら。

そんなことを想いながら聴くのが楽しい。

 


The Best of Tallis

言葉にならない7月

7月はずっと閉じていた。

なにかが閉じているときは、


別の方向へ開いてるはず。

うまく言葉にできない時間が続いて


でもそれはとても重厚な時間で

私というものの輪郭が
意図せずにどんどん広がって

自分の意識がそれについていけないような
そういう時間だった。

なに言ってるのか
分からないかもしれないけれど

自分にはほんとうにそういう感じだった。

私、と呼んでいるものに、
しがみつこうとするんだけれど

ぼろぼろとはがれおちて
必死でもう一度掴んで

それでもはがれおちて
それでももう一度掴んで

やっと真ん中にあるものを抱きしめた
と思ったら

そのまま
それと一緒に宙を落っこちて


もう一度地面から、這い上がるように


ぼろぼろとはがれおちる壁に
手をかけては、

少しずつ進んで

だんだん意識が遠のいていく


そういう感じがする

 


そんな7月だった。

Dive into “...............”

ダンサーではない私たちには
身体があり、踊ることができる。
 
ミュージシャンではない私たちは
歌うこと、奏でることができる。
 
芸術家ではない私たちは
描くこと、かたちづくることができる。
 
作家ではない私たちは
書くこと、伝えることができる。
 
治療者ではないわたしたちは
癒すこと、調えることができる。  
 
私たちはこの日常に
そういう全ての可能性を与えられている。
 
 
行為と職業と収入とパーソナリティを
ぐちゃぐちゃにして
 
自分のやりたいことをジャッジするのは
もうやめていいんじゃないかな。
 
 
おおきくなったらなにになりたい?
って子どもに問うのではなく
 
 
ただただ

いま、なにがやりたい?

死ぬまで自分に問い続けたい。
 
 
そしてそれをすることを
自分に許し続けたい。
 
  
そうするなかで
 
 
やりたい という衝動は

輝きをまして

誰かと共有できるものになっていく
  
 
そういう可能性があるってことを
あらゆる年齢の子どもたちに
伝えていきたい。

 

たとえ人生が終わるころだったとしても
その気持ちを自分に許す瞬間は
可能なんだってこと

 

この世界の美しさと
あそんでいいんだよってこと

 

そういうことを
伝えていきたいな
 
 
 
たくさんの偉大な
あるいは無名の先人たちが
そうしてきてくれたように。

私もその流れにダイブします。

好奇心と生きる

好奇心て大事だよ。
生きる力みたいなものだと思う。

それを、日々のなかで
さりげないこと
誰からも褒められないようなこと
見つけられないようなこと
どんなことからでもいいから
ひとつずつかたちにしてみる。

最初はすこしは
練習がいるかもしれないから
できれば無目的で
誰のジャッジも受けないような
場があるといいけれど。

自分探しっていうものが
もしも必要だとするなら

なにを仕事にするか、とか
どこに引っ越すか、とかで
考えるんじゃなくて

そういうところから
やるのもいいと思うな。

すぐに答えを求めるのではなくて。
自分の好奇心や感覚に近づいていく
というところから。

そして、自分の動きに
ついていくことで
見えてくる風景がある。

ちょうど、響きあう距離

こないだ、バーに行ったときのこと。

ワインと小さな料理を頼んだけど
それぞれすごく個性があって
味わうタイミングが近すぎると
どうもぶつかるような感じだった。

ので、料理を食べて、
余韻が消えるか消えないか消えるか
って頃にワインを少し含んで、とか
香りだけの時間を長めに楽しんで、とか

そうやって、ふたつの距離(タイミング?)
を変えながら、ちょうど楽しめるあたりを
探したりするのが、ものすごく楽しかった。

なんでも口の中で混ぜればいいものではない。
音を同時にならせばよいものではないように。

香りや味にも、ちょうど響きあう
距離やタイミングがあることを
その日に発見してすごく興奮した。

あう、あわない、ではなく。
もっと繊細で変化に富んだ楽しみ方。

ああいうことを楽しみはじめると
もうこの世界って本当に飽きない。
酔うどころか、どんどん醒めてくる。

誰かとの会話も
文字のレイアウトも
ぜんぶそういう間の取り方で
響きが変わってくるんだから
とにかく楽しいことだ。

それにしても最後に食べた
プリンとウィスキーの
あの美しさが、脳裏というか
あざやかに鼻腔に蘇る。