SENSE OF PRESENSE – 世界は響きあうからだ –

人間と自然をつなぐ芸術–art–へ向かって。感覚・表現・交感のゆたかさを探求する旅のノート:松井雄一郎

身体の声をききはじめた日

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初めて、カウンセリングの講座に参加したときのこと。

その講座は僕にとって
聴く人のあり方と
話す人の生きようとする力
の 関係
を徹底的に見つめる経験だった。

いろいろ教えはあったんだけれど、なかでも「無条件の肯定的尊重」という感覚が、とても大切だと思えた。そういう態度で相手の声に耳を澄まして、すべての言葉や間合いを解釈せずに全身でついていったときに、なにか、2人が共有している語りの時空みたいなものが生まれてくる、という感じだった。その空間があると、人は自分から生きようとする力を発揮する、という感覚を得た。

相手の言葉を聞きながら「つまりそれは…」とか考えたり、「本当はこうしたいんじゃないか…」とか予想したりしながら聴いていると、話している人の瞬間のエネルギーからはなれてしまう。そうはせずに、つまり、こちらの声を起動せずに、どんどん空になって、相手の声が自分に響いてくるような感覚を、味わっていくのが楽しかった。

それだけでも、とても大きな経験だったのだけれど、その夜に、僕はもう1つの経験をした。これは端折って書くけれど「亡くなった方の隣に居たときに“まだ細胞は生きている”と感じた」という話を聴いたんだ。その瞬間から、自分の身体の細胞が生きている!という感覚が動き始めて、自分の身体は細かく震えはじめた。

その夜、僕は、よくわからない不安も恐怖も止めることなく、ひと通り自分の話を仲間に聴いてもらった。そのあと、独りになり、なぜかふと、自分の身体と呼吸とともにいてみようと思った。

さっき学んだカウンセリングのように、身体の状態を、一切の解釈をせず、また、次々に頭に浮かぶ他のことには気を取られず、ひたすら身体だけを感じ続けてみようと思って、やってみた。時間無制限、今日は眠るまでやるよ、と思って、身体が自分の相手であるかのように思って、ひたすら、その状態に、そっと手をあてながら、寄り添った。こんなに、自分の身体だけに意識を向け続けたのは30年くらいの人生で初めてだった。

味わい深い時間だった。身体が安心すると、呼吸が深まるし、ここら辺に手をあてたいと感じたかと思えば、ふとまた別の場所が浮かび上がって…と、自分の身体が、刻々と、変化して、バランスを変えていくことを味わった。その変化に、自分の意識と呼吸を向けることで、一緒にいることができた。自分の身体と話をするような感じだった。翌朝の自分の身体は、なんかこどもの肌のような生命力に充ちているような初めての質感だったような気がした。

その日から、身体と自分は100%イコールではなくて、その生命体と自分が、一緒になって生きている、という感覚になった。困ったら身体に聴く。あるいは、ついつい自分のペースで振り回しちゃうけれど、それでもなんとかついてきてくれる、自分を導いてくれることもある、頼もしい相棒、という感じでいる。

で、こうやって書いてみたら。最近あまり丁寧に向き合っていなかったなあ、久しぶりに思い出したなあ、と、身体がすこしホッとしている感じがしました。

 

 

そんな感覚も織り交ぜつつ

5/27 東京都内にてワークショップやります。

『しあわせとしあわせを行き来する』workshop session - SENSE OF PRESENSE – 世界は響きあうからだ –

 

 

かたちになるまえのかたち

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なにか発信したいことがあるのに
バラバラとしたメモが散乱するだけで

どれを差し出すということもできず
ブワッとした想いを抱えている。

でもこうして、ブワッとした想いを
抱えていられる空間があることが
すごく大事なことだと思っている。

すぐにかたちにならないことが
あっていいし

ぼんやりとなにかがある、の
「ぼんやり」をたしかに感じていれば
いいんじゃないかな。

深い海を泳いでいる命が
いままさに海面へと向かって
上昇してきているのかもしれないし

まだまだ、悠々と泳いでいられる
その喜びが伝わってきているのかもしれない。

そういうものをそのまま感じながら
今日も歩いていればいいんじゃないかな。

急いで形にしなくてもいい。

かたちになるまえのかたちが
かならずそこにはあるのだと
私たちの身体は知っている。

時間の在処

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星の光は
時間をこえて
私たちに届いている。

星はずっと遠くに
いまもあるかもしれないし
ないかもしれない

人の言葉も想いも
そんなような感じがする。

それが
「いつ・どこで」光ったか
ということよりも

その光が 私の 
皮膚に 眼に 耳に 届いている
「いま」という出来事が

私の生きている世界を
つくっているように感じられる

そうやって
私が世界に触れている
「境界」が

時間というものの
在処なのではないかとおもう。

私と世界の境界が変化すれば
時間のありかたも変化する。

身体、言葉、絵や音楽…
すべての表現は
私たちに与えられた
「時間」への入り口
のように思える。

そういうことを学ぶような
学校をつくりたいなあ
とずっと思っている。

優等生になれない場をデザインする

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優等生として振る舞いたい自分がずっといた。

今も、その自分はいなくはないけど。

だから、参加しているワークショップやクラス等で
先生を慕えば慕うほど、その好み(これは幻想)に
なっていこうとする自分がいて

そのこと自体が嫌になって
その場にいられなくなることが多々あった。

あるいは、自分の発言が
場に対してインパクトをもつのを避けたい、とか
なんか良さそうなこと言ってるふうだけれど
本当にそうか?みたいな疑いが自分に働いたり。

そういう、優等生やっちゃう自分にたいしての
嫌悪感が働いているときっていうのは
自分が感じていることに対しても疑いをもつ。
これが一番つらい。

やりたいことを、やりたいと思っていいのか?
もっとしかるべき振る舞いや成果があるのではないか?
と仮定して自分のいまを疑って
動けなくなるということがあった。

だから、自分のひらく場では
かなり明確に、相手にたいして
「私は具体的ないっさいの期待をしていない」
ということを伝えるようにしているし

具体的な期待があるならば
「これをこういうふうにやってみてほしい」
と言うようにしている。

起きることに、想定している範囲があるのであれば
結果がその範囲に収まるようなプロセスを用意する。

そして、そこで起きたことは、全面的に引き受けて
次の選択に集中する。そういうつもりでやっている。

なんでも自由にやっていいよ、と言われて、
やってみたら、「いや、そうじゃなくってさあ、」
というプロセスは、お互い、つまらないし、

「私がいい子だから、いい結果がでている」
と思ってしまうと
「自分でこれを達成した」
という感覚がもてない。

そうなってしまっては、その人の等身大の経験を
奪ってしまうことになるんじゃないかな。

とくに、描くとか、つくるとか、踊るとか
非言語のやり取りにおいては、そのリアクションって
すごく深く自分に入ってきてしまうから

感覚を扱う教育やワークショップの場では
そういうところ、すごく慎重にやっています。

ワークショップをいくつか準備しているので
またお知らせさせてくださいね。
 

(photo: Yusuke Sato)

悠久の時間

悠久の時間というのは、
はるか昔のことを言うのではない。
はるか昔もいまも変わらない、あの時間のことだ。

変化が緩やかであることを言うのではない。
変化のなかにあっても変わらない、あの時間のことだ。

伸び縮みして、目の前に現れては消える。
それでも、皮膚に触れている、もうひとつの空気のように
いつだって僕たちと一緒にある、あの時間のことだ。
 
その時間がひらくのは、人が心をひらいている時だ。
耳を澄ませているとき、目をあけている勇気があるときだ。
 
私たちはひらいた扉を行き来して
象徴の森や、感覚の海へと旅をして
いったい何をしようとしているのだろう。
 
そうやって世界の輪郭を手放したり掴み直したりして
なぜこんなにも、なにかを表現したい、
誰かに伝えたいと願うのだろう。
そう願うだけで、胸が苦しくなるのはなぜだろう。
 
この願いからこぼれおちる涙の水源が
たぶん、あの時間なのだと思う。
 
扉はいつだって、
私たちに開こうとしているように思える。

『しあわせとしあわせを行き来する』workshop session

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信岡良亮+松井雄一郎
ワークショップセッション

『しあわせとしあわせを行き来する』
 
5 / 27 土 17:00~21:00
会場:東京・六本木
定員 8名
参加費 5,000円
(詳細更新しました)

 

お申し込みはこちらから

https://www.reservestock.jp/events/189820





数年来、交流のある、 信岡良亮 くん
(株式会社アスノオト/株式会社巡の環)
との “あそび” を一緒にやります。
 
信岡くんは、経済や交換、都市と農村などのさまざまな視点から、
この社会での「幸せのあり方」を模索・思索している人のように、
僕には見えています。

松井は今回、彼が投げかけてくれる
「幸せのありかた」に関するテーマを
感覚・動き・空間などの視点から、
掘り下げていくような場のアプローチを提案します。

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《テーマ》

今回のテーマについての信岡くんのメモより。



しあわせとしあわせを行き来する、
というテーマが生まれた背景に

幸せって、固定された一つのイメージなのだろうか?
というのがある。

「理想の食事」というのを思い浮かべると、
1汁3菜のトレーを思い浮かべるように
バランスのとれたものを一枚絵のように想像する。

でも実際は、
今日はパスタで、明日は肉じゃが、水曜日には焼肉を食べて
反省も込めて木曜日はおにぎり、というように
欲しいしあわせな食事は、昨日と明日の状況の間に落ちていたりする。

そんなふうに、めぐりゆく日々の営みとして、
しあわせを捉えなおしてみると、
静的な(一枚物の固定された)幸せから、
動的な(いろんな性質をバランスよく巡っていける)幸せ
として捉えた方がずっと

こころの健康に役に立つような気がしている近頃です。

なので今回は、「何をしたいの?」とか
「どうありたいの?」といった
絞っていく世界ではなく、

「どんな状況の循環が心地よい?」といった 
行き来全体を見渡してみる、という
全体の広がりを感じる時間を
どうにか創ってみたいなと、

そんなことが松井くんと話しながら ピンときたのです。

もしかするとこの時間の目指すところは
「自分の幸せの多様性」に触れること、かもしれません。

 

お申し込みはこちらから

https://www.reservestock.jp/events/189820

自分の感覚を手放さずに生きていくために

自分の感覚を深めて、
そのときの自分の感覚を信じて
どんどん進んでみたらいいんじゃないかな。

そこで出会う風景が、自分なのかもしれないし。

その可能性を、どこかで見たイメージややりかたに
絡めとられないように、とことん自分なりにやってみよう。

… 数年前、武蔵野美術大学で授業をしているとき
僕は、こんなことを感じ、伝えていた。

自分の人生を通して、集め、構築してきた
そのための方法を共有していた。

・ 
 
そして、そう言うからには
自分もそう生きようとしていた。

けれど自分の人生において
それを貫いていないというか

そうしていった先にちゃんと開ける場所があるよ
自分においては、その場所があったよ、と
感じられなくなったときに、

そう言える自信が揺らいだときに

僕は、若い人たちに
本当にそう伝えてもいいのか分からなくなり
ほどなくその仕事からは離れることになった。
 

  
自分の根幹にある美意識や姿勢と
自分の行動が離れていると

人は世界と自分自身への信頼を
見失ってしまうのかもしれない。

けれどそういう揺らぎですら
認めて、十分に感じきると
その先にはあらたな風景が見えてくるというか

たとえ根にある感覚は変わらなくても
ひとまわり鮮やかに確かに
それを手にしている自分がちゃんといる。

だから、やっぱりいつだって
自分なりの感覚を生きていいよ
それを手放さなくていいよと
言ってあげたい。

それでも、旅の途中でどうしようもなく
不安で、進めなくなるときもある。
もうやめたい、と思うときがくる。

そういう気持ちをすべてゆるしながらも
それでも

世界に対してあなたの心を閉ざす必要はない

ということを、無言で伝えていくのが
大人の仕事なんだといまは思っている。

 

(書いちゃったけど)